セミナー参加者 100名 懇親会参加者 70名と盛会でした。
どうしても見ることが出来なかった人のためにも、感想文がありましたので紹介いたします。
第36代 行司 木村庄之助氏の講演「努力は実る」を聞いて
10月29日(土)16時~17時30分にかけ、中野サンプラザで「関東鹿児島県人会連合会」主催のセミナーとして、標記講演会が開かれました。定員200名の会場は満員になりました。 36代木村庄之助氏(本名山崎敏廣氏)は鹿児島県枕崎市出身で、実に波乱万丈の人生だと思いました。 講演のポイントを、個人的な感想としてまとめてみました。
昭和39年1月、15歳の時に正式に中学校を卒業する前に、相撲好きの父親と父の友人に騙されて、行司を目指して上京する羽目になったとのこと。38年の秋に鹿児島に来た地方巡業に鹿児島出身の鶴ヶ嶺関を見たくて連れて行って貰ったが、鶴ヶ嶺関には会えず、控え部屋で会えたのは余りさえない行司さんだったとのこと、「相撲は好きか」と聞かれ、「はい大好きです」と答えたら「君は体が小さいので、力士にはなれないと思うが、行司になる気はないか」と聞かれ、父親には悪いと思ったが「行事になる気はありません」と答え、その日は、鶴ヶ嶺に会えず、しぶしぶ帰宅。その後、父親と父の友人から「行司にならないか」と何回も誘われたが、「嫌だ」と答え続けている中に話がなくなり、その話は消えたと思っていた。ところが年明けの新学期になって、中学校の全体集会の席上、突然、校長先生から壇上に立つように言われ、「何か悪いことをして怒られるのかな」と思いながら、恐る恐る壇上に立ったところ、「皆さん、この度、山崎君は大相撲の行司を目指して、上京することになりました。皆で万歳をして送りましょう」と言われ、皆から万歳三唱をしてもらい、目を白黒させながら、上京せざるを得なくなった。まだ1月で中学校を卒業もしていないのに、教育委員会の方では、「出席日数はすでにクリアーしているので、卒業証書は後であげる」とのことで、多くの人達のだまし討ちにあい、昭和39年1月15日に「米の通帳」を持って、迎えの車で枕崎を出発、鹿児島に向かったが、鹿児島から特急「はやぶさ」に乗り換えるかと思いきや、そのまま車で、でこぼこ道にゆられながら、3日間かけて東京へ。途中、箱根付近で気分が悪くなり、病院へ。健康に自信のあった山崎さんが病院へ行ったのは、生涯の中で、この一回だけとのこと、行司生活49年、一回も病気やケガもなく、49年間、無遅刻・無欠勤だったとのこと、
「行司」と言えば、「相撲の勝ち負けの判定」だけと思われるが、その仕事の範囲は広く、「相撲の番付表の作成」から「決まり手の場内放送」「巡業中の力士他関係者のホテルの手配、切符の手配」等まで、幅広いものであるとのこと。「番付表の作成」は大変な仕事で、毛筆で、1列30センチの範囲に100名~200名の名前を書くなど1文字3ミリ~1ミリと虫メガネで見るような文字を1枚の紙の中に、全体で約1000名分書くとのこと、線の引いてない、真っ白な紙に、縦横の並び、字のサイズ等、簡単には書けないとのこと。血のにじむような特訓で、一人前になるには、数十年かかり、この字が書けないと、行司として上位に進む速度が遅れるとのこと。相撲界では、何事も手をとり、足をとって教えてくれず、「見て覚えろ」という主義で、覚えが悪いと頭を殴られ、逃げ出したくなったことが何回もあったそうですが、わかるような気がします。
行司の定員は45名であるが、「番付表」が書けるのは字のうまい上位3名だけで後輩の育成も大事な仕事になっている。
また、番付表は、まだ、正式の発表がある前に、ごく一部の人で作成するので、番付表を作る人は「口が堅いこと」が必須で、厳しく言われたそうです。(私も会社で人事課長を務めたことがありましたが、辞令作成のために、人事異動や昇進・昇格を人よりも早く知るわけであり、口の堅さを求められたことを思い出しました。)
行司にも力士同様、格があり、一番下は、裸足でモメンの服、黒又は緑の房、十両格になるとタビがはけ、服も絹、緑白の房、幕内格になるとタビの上に草履も履け、朱色の房、立行司になると、印籠や刀もつけるなど、いろいろな差があるとのこと。刀は行司差し違いがあれば、腹を切るくらいの真剣さで審判をするように求められているとのこと。
相撲の勝負は、土俵際でもつれることが多く、差し違いも何回も生じており、切腹は求められないものの行司としてマイナス点がつくので、物言いのつくことが多い、きわどい相撲をとる力士は行司にとっては、嫌な存在であるが、最近では「安美錦」が行司にとっては、嫌な存在だった。(昔、霧島と水戸泉が3回も物言いがついて取り直しがあったが、行司さんにとっては嫌な存在であったかも知れないが、観客にとっては、興奮の連続だったことを思い出しました。) 行司のマナーとして、正面席にお尻を向けないとか、テレビカメラの邪魔しないとか、観客の観戦の邪魔にならないようにするとか、いろいろな心構えがあり、足運びも「神歩き」と称するすり足で、神経が物凄く疲れるとのことでした。
36代立行司といえば、行司の横綱格。力士では横綱鶴竜が71代目。力士に比べ、横綱になれる数は少ない。そのような立派な横綱格の立行司に、我が鹿児島県出身者がいたことを、今迄、知りませんでした。 また行司の任務。役割についても知りませんでした。
今後、相撲を見る時に、行司さんの一挙手一動にも注意しながら、楽しみたいと思います。
中学校を出て、世間知らずの人間が、最高峰の位置まで登り詰めた裏には、大変な苦労と努力があったことだなと感じました。
最後に、「努力は実る」という演題にふれ、好きな言葉として、「やる気と根気、負けん気」の3つの言葉を信じ、歯を食いしばって頑張ったという経験談を通して、参考にして欲しいと締めくくられました。 1時間15分の予定が皆の要望に応え、1時間30分の講演になりましたが、まだ時間が足りないくらいでした。
また途中、美声で「相撲甚句」も聞かせていただきました。
17時40分から約2時間の懇親会にも参加され、皆と親しく、歓談していただきました。
私も「力士は幕下までは、給料がなく、部屋でご飯は食べさしてもらっていると聞くが、行司さんも同じですか?」と聞いたら「金は少ないが、行司は最初から給料が貰える」とのことでした。でも修業時代は、「人並みに恋をする時間もなかった」と講演の中でも話しておられました。