もっと鹿児島が知りたい[2]知覧町観光案内
写真提供:鹿児島県観光連盟/知覧町観光課
薩摩の小京都・知覧武家屋敷群
薩摩藩外城の一つ、知覧麓には18代知覧領主・島津久峯の整備した武家屋敷群が母ヶ岳を借景に残り、武家屋敷通りと亀甲城跡を含む18.6haが国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。見学可能な7つの庭園の内、「森重堅氏邸」の庭園は水を配した池泉式庭園ですが、他の庭園は枯山水で、いずれも京都の庭師が造園したと伝えられています。美しく落ち着いた武家屋敷群は「薩摩の小京都」と称されています。各邸は住居として現在も使用されています。
- 国選定「知覧重要伝統的建造物群保存地区」1981年に指定
- 国指定「名勝庭園」
- 建設省日本の道100選
●鹿児島山形屋バスセンター~武家屋敷入口…鹿児島交通バス枕崎行きで1時間15分
●枕崎~中郡…鹿児島交通バス知覧、鹿児島行きで30分
●中郡~武家屋敷入園受付所…徒歩5分
250年の歴史を秘めた7名園
西郷恵一郎氏庭園
知覧郷地頭仮屋跡に隣接する208平方メートルの庭園です。枯滝を表現した石組、波形の刈り込み、サツキの刈り込みが軽快な美しさを演出しています。鶴亀の庭園とも称され、高い石組みの鶴と谷川に遊ぶように亀の石が配されています。
平山克巳氏庭園
石組みとイヌマキの刈り込み、遥かに母ヶ岳を借景として取り入れた美しい庭園です。イヌマキの刈り込みは母ヶ岳からわかれた峯々を表現しています。
平山亮一氏庭園
天明年間(1781~1789年)に作庭されたと伝えられています。書院は嘉永年間(1848~54年)に再興されました。石組はなく、遠景のイヌマキの刈り込みは山々を表し、前景のサツキの刈り込みは築山を表現して、2段構えの構図がきれいです。また母ヶ岳を借景として見事な借景園を構成しています。
佐多美舟氏庭園
知覧佐多氏の本家です。庭園は島津久峯が寛延4年(1751年)に藩主を招いた際に造ったもので、枯滝や築山に堂々とした石組を配して、知覧の庭園の中では最も広く豪華です。庭園は昭和63年(1988年)に復旧整備後、公開されました。
佐多民子氏庭園
寛政年間(1789~1801年)の作で、巨石を配して枯滝を流し、高低差のある山水画的構成が見事です。
佐多直忠氏庭園
寛保年間(1741~1744)の作庭と考えられています。門をくぐると屏風岩と呼ばれる目隠し石が配されて、敵が攻めてきても直ぐに屋敷の奥に入れない桝形構造になっています。築山に立つ3.5mの石と枯滝の石組が微妙な趣を呈し、全体的に水墨画のような印象があります。
森重堅(しげみつ)氏庭園
池や流れる水が美しい唯一の池泉式庭園です。寛保元年(1741年)に母屋が建てられ、庭園はその後整えられました。曲線の美しい池を中心に築山を配し、池の周囲には巨石を置いて枯滝や洞穴を石組みしています。知覧茶のサービスがあります。
入園料…大人:310円、小人(小・中):205円/団体(30人以上)…大人:280円、小人185円
開園時間…9:00~17:00
休園日…年中無休
お問い合わせ…庭園保存会(役場観光課内) TEL:0993-83-2511
知覧特攻平和会館
知覧には1942年に太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が開校し、1945年、沖縄戦の特攻基地となり多くの若者がここから飛び立っていきました。館内には零式戦闘機や3式戦闘機「飛燕」、特攻隊員として若い命を終えた1035名の遺影、遺書、遺品等が展示され、敷地内の特攻平和観音堂には1026柱の特攻隊員の霊が祀られています。
入館料…大人:500円、小人:300円/団体(30人以上)…大人:400円、小人:240円 /ミュージアム知覧との共通券…大人:600円、小人:400円
開館時間…9:00~17:00
休館日…年中無休
お問い合わせ…TEL:0993-83-2511
ミュージアム知覧
南薩摩の文化や歴史を展示や音響、映像で興味深く見せてくれます。映像でみる知覧城や武家屋敷の姿、武家や庶民の暮らしなど楽しく知ることができます。一向宗の隠れ信徒たちの講「細布講」に伝わる史料「蓮如上人伝絵」も展示されています。
入館料…大人:300円、小人:200円/団体(30人以上)…大人:280円、小人:180円/平和開館との共通券…大人:600円、小人:400円
開館時間…9:00~17:00
休館日…毎週水曜日(国民の祝日を除く)、7月1~3日、12月29~31日
お問い合わせ…TEL:0993-83-4433
知覧城址と亀甲城址
知覧城跡
麓川の左岸・標高176mのシラス台地の一角に建つ、南北800m、東西900m、面積45万平方メートルの山城です。本丸を中心に4つの主曲輪と7つの曲輪から成り、曲輪の周囲には土塁が築かれ、その周りに空堀をめぐらしていました。上木場(うえこば)城・上之木場(うえのこば)城とも呼ばれていました。最初の城主は地頭系知覧氏の祖・薩摩平氏頴娃(えい)忠永の子・忠信と伝えられています。
その後、北朝方の島津氏が薩摩・大隈・日向を平定した際、足利尊氏の下文で知覧が島津忠宗の三男・佐多忠光に与えられたことによって知覧城も佐多氏の居城となりました。歴史の流れとともに城主を替えましたが、天正16年(1588年)頃、火災に遭い、天正19年(1591年)佐多久慶が佐多城に城替えとなった後、廃城となりました。
亀甲城跡
知覧城の東隣に隣接する小山にあった知覧城の出城です。現在、お弓場・邸宅・大手門・搦め手門などの跡が確認されています。
知覧の歴史
8世紀、各地に荘園が出来上がり豪族たちが土地を私有化して治めるようになった頃、知覧を治めていたのは、村岡平氏の一族、知覧氏でした。
薩摩・大隈両国の最大の荘園は島津庄で、その起源は11世紀前半に太宰大監(だざいのたいげん)平季基(すえもと)が日向国諸県(もろかた)郡の島津の地を開墾し、関白藤原頼道に寄進したことに始まります。
次第に勢力を増大した島津庄に薩摩・大隈各地の豪族も従うようになり、元暦2年(1185年)、島津忠久が入国した後、薩摩・大隈両国は島津氏のもとで統治されていくようになりました。
中世・鎌倉期、知覧は平氏一族の郡司・知覧氏と島津氏支流の地頭・知覧氏の支配下に統治されていました。
南北朝時代、南朝方についた郡司・知覧氏は正平10年(1355年)薩摩南朝方の敗退と共に滅び、地頭・知覧氏も室町初期に没落したと言われます。
文和2年(1353年)の足利尊氏下文案によると知覧は島津氏4代忠宗の3男・忠光に与えられ、忠光が知覧の領主となって知覧城に入り、「佐多氏」を名乗りました。
天正19年(1591年)佐多氏が河辺郡宮村(現川辺町)に移封されたのち、知覧は島津氏の直轄領になり、文禄4年(1595年)には一時、種子島久時の私領となったのです。
慶長4年(1599年)、再び島津氏の領土となった知覧は慶長15年(1610年)、佐多忠充が地頭に任命されてから佐多氏の支配下にもどり、1677年(延宝5年)、16代・佐多久達の時代に私領となりました。
佐多久達は鹿児島藩主・島津光久の5男で、城代兼留守居家老として勤めあげたため、正徳元年(1711年)には島津姓を名乗ることを許されるようになり、以来、知覧は佐多島津氏の所領となりました。
島津氏23代継豊の子・久峯は18代知覧領主として佐多家に入る一方、島津氏本家の家老も兼ねて藩主重豪(しげひで)を補佐しました。
才気に溢れた久峯は参勤交代の途中に京都を訪れ、青蓮院門跡で書道を学び、学問所を創設するなど知覧の整備に尽くしました。現在に残る武家屋敷を中心とする町造りに着手したのも久峯です。
町の中心から亀甲城にいたるまでの道を本馬場といい、その両脇に武家屋敷を整然と構え、上級郷士の住居としました。麓は城主の仮屋を中心にして城郭的な要素が強く、軍事的な色彩が濃い街づくりでした。本馬場の通りも少しづつ曲がりくねって見通しが悪く造られています。
武家屋敷庭園の石垣の上に槙や茶の木を植え込み、外から見通しを悪くし、更に屋敷入口から玄関へは真っ直ぐに行けないような桝形構造の塀作りをしました。
こうして武家屋敷群そのものが敵に対する防御壁の役割を果たす町構造を完成しました。
久峯のもとに整備された武家屋敷群は国選定「知覧重要伝統的建造物群保存地区」として残されています。
郷士
薩摩藩は113の外城を藩内に置き周辺の国からの防衛にあたっていました。各外城に勤める藩士は鹿児島の城下士に対して「郷士」と呼ばれ、戦時には武士として戦闘に携わりますが、通常は農民として農地の開拓・開墾を行う半士半農の性格を帯びていました。各外城の周囲には攻撃から外城を守る防塁として武家屋敷群がおかれ、知覧の武家屋敷群もこうした防塁の役割を担っていました。
知覧の名産品
知覧傘提灯
安政年間に下級武士の内職として考案されたと伝えられる傘で、半開きにすれば日傘、雨傘として、全開すると夜には提灯にもなります。また、閉じて使えば護身用の武器としても役立ちました。真竹の一節を32等分した骨に和紙をはり、ひとつひとつ丁寧に作り上げられる伝統工芸です。薄絹の絵張りの傘もあり、インテリアとしても喜ばれています。
お問い合わせ先…富永可愚家民芸 TEL:0993-83-2058
知覧茶
平家の落人が茶の生産を始めたと伝えられていますが、本格的に栽培が開始されたのは明治初年からです。平成8年からは連続3年農林水産大臣賞、産地賞を受賞するなど、数々の賞を受賞している伝統ある豊かな味わいのお茶です。
お茶摘み体験…4月中旬~8月下旬
さつま芋・知覧紅
フィリピンから中国・琉球を経て沖縄中部にもたらされたさつま芋は1611年(慶長16年)に薩摩兵が琉球から帰還したときに鹿児島に伝えられました。名前は場所や種類によって様々に呼ばれていました。18世紀に入り、飢饉が慢性化したことを契機に行政の指導によりさつま芋は改良され、普及しました。芋納糖や芋かりんとう、銘酒武家屋敷や桜島、はちみつや田舎みそなど、まだまだたくさんの名産品があります。
芋掘り体験…7月中旬~11月下旬
お問い合わせ…知覧町観光課 TEL:0993-83-2511
知覧の催事・行事
薩摩の水からくり
7月9日~10日
豊玉姫神社に奉納されるからくり人形芝居です。水車の動力で人形を動かします。人形の微妙な動きはその精巧な仕掛けによるもので、国の無形民俗文化財に指定されています。演目は「因幡の白兎」、「川中島の戦い」、「那須の与一」などがあります。
ソラヨイ(国の無形民俗文化財に指定されています)南薩摩十五夜行事
旧8月15日夜
●ソラヨイ
南薩摩地方に伝わる豊作を祝い、祈る行事で、子どもたちがワラやカヤで作った笠をかぶり、腰ミノをつけて「ソーラヨイ、ソーラヨイ」と円陣をつくり、地面を踏みしめながら踊ります。子どもたちは山から降りてきた収穫の神様を表し、今年の豊作を祝い、来年の豊作を祈ります。「ソラヨイ」とは「今年の作物は良い、良い」と神が人々に伝えている言葉だと言われています。
●横引き
門之浦集落で行われる大漁と豊作を祈る行事で、直径50cm、長さ20mほどの大綱を引き合います。海側にふんどし姿のにせ衆、陸側に女性とふんどし姿の子どもが構えて綱を引き合います。
平賀町ねぷた祭 in 知覧
7月中旬の土曜日
平成8 年から開催されている行事で、青森県平賀町の武者絵の描かれたねぷたが中郡の商店街を練り歩きます。
平和へのメッセージ from 知覧・
スピーチコンテスト
8月15日
「平和の尊さを語り継ぐ町」として世界に向けて平和をアピールするスピーチコンテストが開かれます。
かせだうち
1月14日
前年に新築した家に神様が訪れ、家の主とこっけいなやりとりをします。神様の扮装とやりとりが笑いを誘います。
「かせだうち」の名の由来は一説には「かせいだ家(うち)」が転じたものだとも伝えられます。
薩摩の一向宗と知覧
薩摩国における一向宗(真宗)の史料は永正3年(1506年)に初見され、ここから推測すると15世紀後半には薩摩にも一向宗が伝播され、活動が開始されていたと思われます。
蓮 如真宗は当時の庶民層に熱狂的に受け入れられはしたものの、教義の理解は蓮如の真の教えから離れて幕藩体制と対立し、北陸各地で激しい一向一揆を勃発させるなど、一向宗徒は為政者の脅威となる存在に化していました。薩摩藩においても一向宗は認められず、慶長2年(1597年)、朝鮮出兵を控えた島津義弘によって真宗禁止令が発布されました。
以降、明治9年の「信教自由開教令」発布にいたるまで300年余にわたり、一貫して薩摩藩は一向宗を厳しく禁止しつづけました。その大きな要因は親鸞の唱える平等主義が薩摩藩の封建体制と全く相容れないことにありました。特に外城制度をとっている薩摩藩では郷士と呼ばれる武士階級が在野しており、一向宗の郷士が農民と一緒になって藩に反旗を翻す可能性もあり、もし、こうしたことが領内の一箇所にでも勃発すれば一揆は連鎖的に藩全体に及び、藩体制をも危うくする恐れが多分にあったからです。
もう一つの大きな要因は、本願寺の巧みな搾取体制にありました。封建制度に縛られている農民階級にとって、一向宗は束縛から農民を解放する自由を象徴する組織でした。農民たちは信仰を保持するために「講」を組織しましたが、「講」の中では武士も農民も念仏を唱えて浄土を目指すという目的のもとで平等でした。「講」の中では郷士を農民の頭が統率していたケースもあります。
一向宗徒たちは中央組織である本願寺に帰属するために、本願寺への貢物献上にその力を傾注し、領主制度さえ崩しかねない様を呈するようになっていきました。農民が農地を放り出して本願寺に向いてしまうことは藩財政を一層逼迫させることになり、藩にとっては大きな脅威でした。また二重鎖国をしいて国産品を上方で販売して藩財政を保っていた薩摩藩にとって、全国組織を形成して上方市場で価格操作を行っていた本願寺教団は商売上のライバルでもあったのです。
藩の一向宗に対する取り締まりは政治的事情に経済的事情が絡んで次第に厳しくなりましたが、それでも信徒たちは隠れて信仰を保ち法座を開きつづけました。
隠れ洞穴一向宗の信徒が多かった知覧郷には信者たちが隠れて阿弥陀仏を拝んだ「隠れ洞穴(ガマ)」が残っています。知覧町立山地区の隠れ洞穴は見学も可能で、人々の信仰の深さを知ることができます。隠れ信者たちには対しては当然のごとく藩の制裁も厳しく、天保6年(1835年)を頂点とする天保年間(1830~44年)には藩の弾圧のもとで数多くの殉教者を生みました。その数、本尊が二千幅(本尊を描いた掛け軸など)、信徒14万人、講70余と伝えられています。
当時、薩摩藩は500万両という多額の負債を抱え、家老の調所広郷(ずしょひろさと・1776~1847)が250年期限無利子償還という経済政策を完遂するために、国内の金品が信徒を通して本願寺へ流れることを厳しく摘発しました。
本願寺も隠れ信徒たちのために、容易に隠せるような小さな秘仏や小幅の御影を下付したので、信徒たちは家の柱をくりぬいて本尊を隠したりしました。こうした遺品の数々が知覧には残されています。
明治に入り講は次第に数を減らしていきましたが、知覧の横井場地区にはかくれ念仏系統の「細布(ほそふ)講」が現在でも続けられています。
細布講は1800年代、京都西本願寺の僧・大魯が教義論争に敗れて鹿児島に渡り、この講を組織したと伝えられます。後、知覧郷出身の永田正源(しょうげん)が大魯を継ぎ、南薩摩を中心に講の強化を図り布教活動を展開しました。「細布」の名はこの講が本願寺に献上した品物の名に由来します。細布講の史料として「蓮如上人絵伝」がミュージアム知覧に展示されています。
現在でも細布講は続けられて年4回の集会が開かれています。